学問の自由,表現の自由,セクシャル・ハラスメント規制,インターネット規制,大学

三原麗珠 (H. Reiju Mihara)
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最終改訂: 2008 年3月
改訂: 1999年8月15日(「関連記事」を追加)
初版:1999年6月3日

1999年8月12日の改訂で追加された論点にはつぎのようなものがあります:


目次

1.学術は規制を行う一部の人間の道具ではない
2.セクシャル・ハラスメント規定には表現の自由保護の但し書きを

3.反論への回答
4.関連記事(リンク)
5.断片集(表現の自由にかんする個人的覚書)


1.学術は規制を行う一部の人間の道具ではない

学問の自由はげんざい大きな危機に直面しています. 表現の自由や学問の自由を軽視した,セクシャル・ハラスメント規制 (「セクシュアル・ハラスメント規制」とも表記) が各大学で性急に導入されようとしているのです.また,インターネットにおける教員や学生のホームページ規制も表現の自由を侵し つつあります.

これらの規制は真理の探求の場として大学に求められている社会的な責任と真っ向から反します.はじめから特定の表現や思想を禁止したり制限したりすることで,真理の探究ができるわけはないのです.特に,人間にかんする真理の探究にあたって,セクシュアリティーにかかわる表現が規制されることは致命的です.生と死,そして性は人間の本質に深くかかわることであり,それらにかんする表現が外的な力によって抑圧されるとき,人間にかんする真理は歪曲されます.規制をするという発想は, 真理の探求と真っ向から対立する不道徳な考え方です.文句があるなら言論で対抗するか無視すべきです.

その意味で,大学はあらゆる表現や思想に開かれている必要があるのです. それらの表現や思想を自由に競争させて,真理に少しずつ近づいていくプロセスが, 大学の守るべき自由学術の姿です.(「自由学術 (liberal science)」という言葉は Rauch (1993) にしたがいました.) 自由学術は問いかけの連続であり,最終的な 答えの存在しない,終わりのないゲームなのです. それは思想の自由市場であり,じゅうぶん機能してきた市場なのです. そこで許される「暴力」は言論や表現によるものに限定された,きわめて 平和的な市場なのです.思想の自由市場以外のやり方---たとえば 権威が決める,みんなで平等に決める,抑圧されたものが決める,人を 傷つけないように決めるなど---は真理探求の方法としては話にならないほど 劣っています.

その市場に「規制」という制度的な暴力を導入するのは,ゲームのルールを破る行為です.ルールが破られるようになれば,ゲームはプレイされなくなります. いいかえれば,規制の導入は自由学術を潰してしまうのです.その平和的な真理探求プロセスの恩恵を,だれも受けられないものにしてしまいます.学問を真理探求 のプロセスでなく,規制を行う一部の人間の道具にしてしまいます. 真理により近いかもしれない少数者をはじめから黙らせることになるのです.

自由学術が機能するためには,あらゆる表現や思想が自由に競争できなくては なりません.競争があるからには,一定の「闘い」は避けられません.これが 「表現による暴力」が許されている理由です.「表現による暴力」が許されていなければ, 真理の探求のためにわれわれは物理的な,実力行使をともなった闘いをし なければならなくなります.そうなると真理のための闘いは破壊的なものになります. 暴力を恐れてたいていの人は黙ってしまい,真理はますます遠ざかってしまいます. したがって「表現による暴力」を受け入れなければ,事実上真理の 探求はできなくなるのです.真理の探求をしなくなれば,大学の 存在理由(規制を行う一部の人間の道具として以外の)はなくなります.

このことから,一部の権威による真理の独占をさけるためには, 大学人は「表現による暴力」を受け入れなければなりません. それはゲームのルールなのです.そして「表現による暴力」が人の感情を 害したり不快感を与えたりすることがあるのは避けられないのです.感情を害されたり不快感を与えられたりしたからといって, 何らかの補償を求めることはルール違反なのです.(ダイアモンドからでもバラの花からでも,人によっては極めて強い不快感を受けるかもしれません.[たとえば,離婚の記憶を呼び起こされるなどの理由で.] だからといって,ダイヤの指輪をすることやバラを飾ることを禁止したり,それらの行為をする人から補償を求めることが正当化されるわけではありません.) いちどそういう償いが受けられると分かった人間は,こんどは償いを受けるために 「傷つけられた」と主張しあうゲームをプレイし始めますから. そうなると学問の正常な発展がますます阻害されるだけでなく, 結果としてとても惨めで,魅力のない社会が実現してしまいます.

「表現による暴力」を物理的攻撃と同一視するレトリックには注意しなければ なりません.たしかに 感情を害されることは,ときには人を死に至らせるほど深刻です. しかし感情を害したその表現自体には人を殺したり,物理的な 傷を負わせる力はないのです.それは意味を理解しない者には 音や文字や映像などの組み合わせにすぎないのです.だから 「だいじょうぶ,死にはしない」というのは文字通り正しいのです. それを理解し,傷ついても立ち上がり生きていくタフさ,あるいは成熟, が大学人には必要なのです.それができなければ,規制というやり方で 学術の市場に介入する中央集権的権威主義を許すことになり,その権威 の考え方にあわない少数のひとびとを黙らせ, さらに深刻に傷つけることになるのです.あるいは,表現以外の暴力 に訴えることを許してしまうのです.


この文章は,わが国の大学でセクシャル・ハラスメント規制が性急に導入されようとしている動きに対応して書かれました.「このままでは,学問(学芸)の自由が守られなくなる」 という差し迫った危機感のもとで書かれました.そのため議論をじゅうぶんつめることよりも,とりあえずいま思いつく論点を挙げることに重点が置かれています.

米国教育省といくつかの大学の文書への言及をのぞいて,実定法的考察や国際比較といった観点はできるだけ避けています.世界には不当にも表現の自由を軽視する国家が多いですから. 少数者から表現の自由を奪うことは,それほど困難もなく多数意見として 民主主義国家で実現できてしまいます.その結果実現した各国の 法を比較したところで,表現の自由の倫理性を明かすことにはなりませんから. 真理は多数決で決めるものでも,権威が決めるものでもありません.

参考文献

Jonathan Rauch. Kindly Inquisitors: The New Attacks on Free Thought. University of Chicago Press, Chicago, 1993.


2.セクシャル・ハラスメント規定には表現の自由保護の但し書きを

「セクハラの防止のためには表現の自由は犠牲にすべきでは」 と考える大学教員がいます.表現の自由をそのように軽々しく考える大学人がいるのは, 残念なことです.「表現の自由軽視」という思想を表現すること自体はもちろん問題ありませんが,制度的暴力で異見を封じ込まないで欲しいと思います.

たしかに言語や視覚表現によるセクシャル・ハラスメントは 一種の「暴力」とよべます.しかしそれは大学人に許された唯一の武器による暴力,「表現による暴力」です.「表現による暴力」が奪われるというのは,あたりさわりのない表現以外の表現が奪われることを意味します.そのとき,われわれ, 特に社会科学者は,どうやって戦えばいいのでしょう? あたりさわりのない表現だけで闘えというのでしょうか? そんなことで大学は社会を変革する責務を果たせるでしょうか?

表現の自由否定派の方々は,社会科学とは無関係の方であるか,あるいは私の想定しているシチュエーションとはちがったものを考えているだけなのかもしれま せん.そこで,私の想定しているシチュエーションをいくつか列挙してみます.表現の自由を軽視することの危険性が,否定派にも理解してもらえるかもしれません.シ チュエーションは主に芸術系,社会学系からの例になりますが,それだけに限りません.


「セクシャル・ハラスメント」として規制されるかもしれない事例集

●授業のとき講師が教材提示カメラで朝日新聞の記事を映し出したら,たまたまい っしょに映ったオヤジ系週刊誌広告に「早慶青と東大女子大生のエッチ度偏差値徹底 調査」などとあったのが映ってしまった.(おまけとして,講師が「ここの大学だっ たらどーなるんだろうな」と余計な独り言を言ってしまったというのを追加してもい い.)

●教養科目担当の非常勤講師のラディカル・フェミニストが「男根絶対主義?」(正確な名前は忘れました; 現代社会の諸悪の根源がペニスの勃起にあるそうです) についてあま りに熱く語るので,受講していた男子学生が(精神的に)硬くなり(精神的に)委縮し居 づらくなり,「この講師が男子学生に単位を出すはずがない」と思い込んで,授業を放棄してしまった. 

●女性フェミニスト芸術家(詩でも絵でもいいが,いちおう写真家を想定)が,担当 する授業で自分の作品と思想を学生に紹介した.作品は一見するかぎりポルノグラフィー のなかのもっとも「低俗」とされる部類と同等で,その思想は女性解放の手段として積極的に評価する立場.(注: ポルノの位置づけは女性抑圧の道具と見る立場から開放の手段と見る 立場まで,フェミニストの間でもかなり論争がある.ポルノ同等物を作品とする意図は,女性がそのように抑圧的にあつかわれてきたという点を強調するため---というのが通常の解釈.この例はそういう一面的な解釈を裏切るための戦略的作品であり, アイロニーにみちている.) この授業を受講していたある女子学生は,「自分が写真のモデルに されるのではないか」と,単純にポルノ写真を見せられるのとはちがった切実な危機 感を持った.(「授業でポルノ」については関連記事を参照.) 

●経済学の授業で,講師が(ステレオタイプであると自覚しながらも)性分担?にかんする不適当な例をもちいて説明した.(ステレオタイプをもちいなければ,学生に余 計な認知処理プロセスを要求することになり,肝心の経済概念の理解のための認知処理資源が浪費される.) たとえば比較優位の理論の「男性法律家と女性秘書」とか,ゲ ーム理論の Battle of the Sexes の「男はボクシング,女はバレエ」とか.

●数理権利論の授業で,学生が「どうして倫理的な問題あつかうのに数学を使わなければならないのですか? 訓詁学とか解釈学じゃいけないのですか?」と質問した.それに答えて講師は,「どうして倫理的な問題をあつかうのに,古代人を引きあいにださなければならないの?と反問したいな.古代哲学はミロのビーナスのような美しさがあるのかもしれない.でも美しいものじゃなくても,自分としては現代性があるほうが刺激的だなあ.ビーナスの裸よりも女子学生の裸のほうが現代性があるでしょ,美しさで劣っていてもね.ま,ビーナスに女子高生の超ミニスカ制服を着せればべつの現代性が現れるかな.」と比喩で答えた.[詳しくは授業ページ参照]

●香川大学で,三原麗珠が何の他意もなく通常に授業したりホームページを作成し たりしようとした.


提言

以上,表現の自由否定派の方々にもなんらかの共感が得られたら幸いです.(「とに かく何が何でも三原を黙らせたい」という方々の共感を得るのは無理でしょうが.) これらをふまえて提言すれば,以下の3点になります.

(1)「表現の自由を最大限に尊重する.プライバシーなど特定の個人の権利を侵害し ないかぎり,教育・研究上の必然性をもって行われるいかなる言語・視覚表現もセクシャル・ハラスメントとみなさない.」との但し書きを,大学における セクシャル・ハラスメント規定に盛り込む.(但し書きの表現には,もっといいものが あるでしょう.)

(2) 身体的接触や身柄の拘束を伴わない行為,言語・視覚表現,そして「環境型セクシャル・ハラスメント」と呼ばれるものの多く,を「セクシャル・ハラスメント」の定義から除外する.

(3) セクシャル・ハラスメント問題の啓発のためのリーフレットなどに,「大学は学問の自由と表現の自由にコミットしている.講義などで性的に不快な発言が行われたとしても,それだけでは大学でいうセクシャル・ハラスメントにはあたらない」ことを明記し,大学の存在理由をアピールする.

これら3点のそれぞれについて,説明しましょう.

まず(1)でいう表現の自由は憲法で守られているはずです.それをわざわざ但し書きで入れる必要があると判断するのは, (i) 表現の自由を軽々しく考える大学人が少なくないため,そして (ii) げんざい多くの大学で制定されようとしている規制が,その運用や解釈を謬らなければ(「同様の但し書きなしに文字通りに規制を適用すれば」の意) 憲法違反になる可能性が高いように思えるため, です.日本では違憲判決は稀なので,ごまかしを続けることは可能かもしれません.香川大学をはじめ日本の大学で制定された(あるいは制定されようとしている)セクハラ規定の多くでは,「学問・表現の自由」にかんする言及はありません.(作為的か不注意によるものかどうかは分かりません.) しかしそれは誠意ある態度ではありません.米国の場合,憲法(修正1条)にたいする配慮があきらかに見られます.米国教育省による関連文書では「教育機関におけるセクシャルハラスメント規制は学問・言論の自由を犯してはならない」とされています.少なくとも文面上は表現の自由が保護されているのです:



次に,提言の(2)の「セクシャル・ハラスメント」の定義については,上の米国教育省 公民権局 「セクシュアル・ハラスメント・ガイダンス」からの引用が参考になるでしょう.また,聞き手をターゲットにしない一般的な発言や私的に交わされる噂まで問題にするのは,無謀というものです.聞き手をターゲットとした性的発言を規制することは,その発言の行われた背景にかかわらず発言した側を不利にするか,性的発言以外の破壊的手段に訴えさせる効果があるので,じゅうぶんな注意が必要です:

提言の(3)で,学生や教員教職員への啓発について触れています.ここで言っていることの目的は,大学の役割について学生や教職員に誤った期待を持たせないことにあります.誤った期待を持たせることは,表現者にとって不利益であるだけでなく,表現を受け止める方にも不利益ですから.

「講義などで性的に不快な発言が行われることはない」といった誤った(するべきでない)約束は,単に潔癖に過ぎるというだけでなく,過剰な期待を生んで被害を深刻化します.被害者になるはずでなかった人に誤った期待を抱かせて被害者にしてしまうのです.というのは,ある表現によって人が傷つけられたり不快感をもつというのは,その表現自体の深刻さに原因があるというより,「そういう表現がされないという期待がある環境で,その期待に反して,そういう表現がされること」に原因があるからです.物理的な暴力とちがい,衝撃の受け方が気持ちの持ちように大きく依存するのです.

しかもこの種の期待は,それが破られないかぎりだんだん高まるものです.したがって表現者にたいする不利益は明らかでしょう.


私の提言の意図するところは,セクシャルハラスメントで本当に困っている人を助けることにあります.大学の名誉を守ることとか(それを守りたいという方々がいるのは十分理解しますが),自己に有利な結果を引きだそうとする自称「被害者」に都合いいルールをつくることが目的ではありません.本当に困っている人を助けるためには,(i) セクシャル・ハラスメントの定義をひろげすぎないことと,(ii) 誤った期待を生むような誤った約束をしないこと,が重要な目標になります.そしてそれらの目標を達成するためには,学問の自由や表現の自由にコミットしていることを大学が強力にアピールしていくことが不可欠なのです.学生や教職員に正しい認識を持ってもらうことが必要なのです.

セクシャル・ハラスメントの問題は,熱心な活動家もいて,やっかいです.大学の名誉を守れとは言わないが,逆の方向に過剰に努力する善意の活動家がいないともかぎり ません.たとえば「大学にセクシャルハラスメントがないわけがない」と, そうでないものまでセクシャル・ハラスメントに仕立て上げる人々です. そのとき表現や学問の自由が失われて しまうことが怖いのです.少なくとも米国では,ヨーロッパ文明の主流を受け継ぐ 多くの専門分野がターゲットになりました.表現の自由に関心ない方も他人事ではすませられないのです.

参考文献

渡辺和子, 女性学教育ネットワーク(編著). キャンパス・セクシュアル・ハラスメント: 調査・分析・対策. 啓文社, 1997.


3.反論への回答(じっさいに受けた反論をもとに再構成しています):

反論(大学教員から):

私は,たばこをすう人は勝手にすったらよいと思うのですが,私と一緒にいる部屋ではすわないでほしいと思っています.表現の自由のために,不快感や危機感を 与える言葉や映像にひたすら耐えろと言われるのでしょうか.それを拒否する権利も あるはずです.われわれはサービス業です.お客さんに危機感を与えていては サービス業は成り立ちません.

回答:

Good Question ですね.拒否する権利というのは, 法学者 Catharine A. MacKinnon のまとはずれな議論 (Only Words,1993) のなかで,私が唯一あるていどの説得力を 感じた論点に近いです.(ただしMacKinnonは拒否できることが,個人の権利だから というより,平等を推進するというような言い方をしている.) サービス業の議論は,消費者主権ということで,これも市場信奉者には 強力ですね.

まず,喫煙が無条件に許された場では,たばこを吸う人を無理にやめさせることはできないでし ょう.喫煙権を尊重すべき場所として定められているのですから. (「他の人の許可を得られれば喫煙できます」といった条件をつけている所はべつ.) ある人の権利は他人にそれを尊重する義務を課すのです.「権利は義務をともなう」と いうのは,「権利を得るためには(それとは無関係の)義務を引き受けなければならない」 といった,権利と引き換えにべつの交換条件を出してくるようなケチな発想とは 違います.大方の理解とちがって,「権利は義務をともなう」というのは 「ある人の権利が他の人には義務となる」という論理的な帰結を言っているだけなのです.

大学,あるいは少なくとも教壇,は喫煙の許された限られた場に似ています. 「真理」(「美的価値」でもいい) を一部の人間の独占にしないためには, あらゆる表現が許される場が必要だと思います.そして自由学術(芸術をふくむ)を になう大学こそがそういう場であるはずです.表現する権利と表現を拒否する権利 はたがいにぶつかり合います.そのうち,最初を優先するのが大学です. 表現できる場を確保するのは,大学にとって義務であり,責務であるのです. 「大学は真理を追究するのが公理である」という言い方が受け入れがたい方には べつの言い方をしましょう.表現によって傷つく人と,表現できないことによって 傷つく人がいるのです.表現がセクシャル・ハラスメントとなりうるように, 表現の制限もハラスメントになりうるのです.両者を傷つけないですむ方法は ないのです.

教壇は舞台です.演劇でお客さんに「ある種の」危機感をもたせるのもひとつの サービスだと思います.もちろん余計な不安を持たせないような工夫はふつうやると 思いますが.マルクス主義なり,フェミニズムなり,特定の思想を伝えようとするにも, 学生の反感を煽ってばかりでは逆効果でしょうし. (私の行っていたミネソタ大学で女性学の入門講座を教えていた女性は, あなたがたはそういう考えではダメだと, 素朴な女子学生をよく泣かせたり怒らせたりしていましたけど.) しかし教員がどう行動するかはあまり重要ではありません.どのようにも 表現できるようにしておくことが大切なのです.リアル感を重視して, 不安を持たせないような工夫をわざとしない芸術家も稀にいるでしょう. お客さんにはそれなりの成熟が要求されていると思います. そうでなければ,もっとも傷つきやすい人に全員があわせなければいけなく なります.それは「弱者」による一種の独裁です.

なお,私は「表現による暴力」とそうでないものを区別するのが重要だと思います. たとえば部活動の合宿の猥談の場に,女子学生にずっといてもらうといった 嫌がらせを保護された表現だとは思いません.必然性もないのに, その場から逃れられない状況をつくっていることやあらかじめその場がそういう 猥談を許す場であることを周知していなかったことが問題であって,表現の問題では ありません.これは表現以外の方法による「暴力」だと思います.(ただし,大学の卒業 用件にもならない部活動の合宿について大学が責任を持つのが望ましいとは考えません.) こういう状況をもって,表現の自由を制限する根拠とするのは議論として荒すぎます.

相談(某大学女子学生から,これって反論じゃないな):

友人が教官から個人的な関係を迫られています.手紙を送ってきたり,電話をかけてきたり,少し怖いそうです.どうしたらいいでしょう.

回答:

なんで僕に聞くんだよと言いたいところだけど,聞いてくる人がいるんですよね,たまに.いやあ弱者学生って存在するんだなあ.怖がらなくていいケースが多いです.つき合わないと言って断れば済む,それだけ.でも余計な心配をする学生はいますね.そんな方のために対策といえば,抑止力を持つことです.そのために底コストでできて高い効果を持つのは,その教官にされたことを日付と時間と場所をふくめて正確に記録しておくことです.それをどう使うかは,ここでは書きません.あと,その教員に影響力の強い教員に相談するとかも他に相談するよりはマシかもしれません.

大学の相談窓口を(脅し以外で)利用するのは私はすすめません.(実績があればいいかもしれませんが.ただし解決した実績であり,セクハラの数を多く出した実績ではありません.)相談のプロでもない教員がやって,秘密とか守れるのかねーと疑いたくなります.「必ず秘密は守ります」というような約束は,不誠実であり,要注意です.たとえば高知大学の(けっこう笑えるが,まじめに考えるとかなり問題のある)パンフレット「勇気を出して」に「セクシャルハラスメントの問題や疑問に対して秘密厳守で相談にのります」とあります(1999年8月現在).努力目標とするのは結構ですが,秘密厳守を保証するような書き方は,(大学の責任問題以外に)相談者に過剰な期待を抱かせてしまう問題があります.

参考文献

キャサリン・A・マッキノン. ポルノグラフィ: 「平等権」と「表現の自由」の間で. 明石書店, 1995. 柿木和代 訳,原著1994年刊行.

渡辺和子, 女性学教育ネットワーク(編著). キャンパス・セクシュアル・ハラスメント: 調査・分析・対策. 啓文社, 1997.


4. 関連記事

  • Cathy Young, Bad Will Toward Men (Review of Heterophobia: Sexual Harassment and the Future of Feminism, by Daphne Patai, Lanham, Md.: Rowman & Littlefield, 250 pages, $22.95), REASON, February 1999. 評書はセクシャル・ハラスメント撲滅運動の行き過ぎを指摘し,その背後にある男性バッシングを批判.
  • Cathy Young, Groping Toward Sanity: Why the Clinton sex scandals are changing the way we talk about sexual harassment, REASON, August/September 1998. いま日本で導入されようとしている種類のセクシャル・ハラスメント規制には,米国ではすでに「行き過ぎであった」と反省が出始めている.この記事はクリントンの事件の前後で主流派フェミニストの主張が一貫していないことを突いている.
  • Cathy Young, March toward pornography mirrors intellectual malaise, The Detroit News, May 26, 1999. 米国大学での最近の「流行」である「ポルノ研究」にたいする彼女の見解.第2節の事例集に挙げた「授業でポルノ」は,もはや仮想例ではない.

  • 5. 断片集(表現の自由にかんする個人的覚書)

    以下は表現の自由に関する個人的な覚書です.文章にまとめる時間がないので, 生の形で列挙しておきます.いちぶ不快感を与えることばがあるかもしれません.

    私的に交わされる噂までコントロールしようとするのか? それは話にならないほど無茶だよ.

    倫理学と抽象数学(現代的アプローチにこだわる理由):
    ミロのビーナスのように美しいものじゃなくても,自分としては現代性があるほうが刺激的.
    あんまり美しくなくても女子学生の裸のほうが現代性がある.
    ビーナスに女子高生の超ミニスカ制服を着せればべつの現代性が現れる.

    大学は民間プロバイダー以上に表現の自由を守る必要がある.違法でも積極的に支援すべき. 警察の介入とか,大学の理念と関係ないときでも非難するでしょ.

    インターネットとかマルチメディアの普及の原動力となったエッチ画像. そこを無視して奇麗事を言っていていいの? 奇麗事言ってちゃ経済学もはじまらない. マルクスをださなくても,すでにアダム・スミス時代から,これ本当だよ. 経済学者は常識にたいして挑戦的なところがかなり強い.

    わが国はエッチ分野での創造力は世界に誇れるものがある.創造力の芽を摘むな.

    一流と呼ばれている新聞でも親父系週刊誌の広告を載せてるじゃないか. 大学を一流新聞紙よりもさらにつまらないところにしたいのか.

    社会学とか芸術ができなくなる.規範的科学としても実証的なものとしても. 差別がどのように行われているかをしめせなくなる.

    現実を正しく伝えられなくなる. フェミニスト芸術表現などがむずかしくなる.

    差別語をなくすのに強制でやるって?強制で行うのが道徳的って?

    契約関係を結ぼうとしているわけでもない相手に虚偽がいけないって? 責任は契約関係を結んだことについて成り立つもの.

    わいせつ画像が癌かなにかの直接の原因になるの?

    コピーライトやプライバシーの尊重をしないわいせつ画像は排除せよ. しかし女子学生が自分のおまんこの写真を載せたとして,禁止するのか? 禁止するとしたらなぜか?汚いからなの? おまんこがきれいだとか汚いとかだれが決めるの?

    ポルノグラフィーが抑圧だとか暴力だとか憎悪を引き起こすとか, 僕には理解できないなあ. ポルノって,見る人を優しい気持ちにするんだと思っていた. もしかしてアメリカのポルノのできが悪いから(広告見ても, 怖そうな黒々した服とか興ざめなものが多いしな; あれじゃエッチな気分にも優しい気分にもなれないわ), そういうアホな感想がでてくるのでは.

    そういえばこの前教授会で僕が不快な言葉を使ったと非難された. 「おまんこ」と言った記憶はないけど,緊張していたので言ったかもしれない. だとしたらごめんなさい.あのときはアラーキーの初期の写真を 映し出した授業の光景が頭にあって,それを描写しようとしていたのです. しかしこの言葉ってそんなに反感を煽るようなもの なんだろうか.僕のオフィスにやってきて,その言葉を楽しそうに使っていた 女子学生(大阪人)いたなあ.めくらとかつんぼとか白痴とか日本人とか,そういうの 以上に反感を持たせるとは思えない.

    本当に常識に外れる情報なら,影響力は弱いのでは?どういう害を及ぼすというのか?

    ものの売り買いの禁止は経済学部にふさわしくないなあ.

    妥協案:「教育・研究上の必要性が認められるばあい,表現の自由は最大限に尊重する.」 しかし,その必要性を説明する立場になった時点ですでに「セクハラ助教授」といううわさが 広まるだろうなあ.それじゃほんとうに行き場がなくなるよ.

    「どのようなものがセクハラにあたるかはマニュアルに示される具体例を見て欲 しい」と一部委員がいっていことについてはあまり期待できません.他大学の例では 「これは単に不器用な恋というもの.大学として介入できるのか,あるいは介入した として効果があるのか疑問」と思えるものが多数見当たりました.

    ナオミ・ウルフ(『美の陰謀』の著者,フェミニスト)さま, 美しいものを美しいと言うことは,悪いことではありません. カミール・パーリア(Camille Paglia, the author of Sexual Personae)も言ってるけど.

    言葉によって傷つけられたことにたいして償いを期待してはいけない.償いを得られると わかってしまえば,人々は「傷つけられた」と主張しあうようになる.

    他人の感情に敏感であると同じように,大学人は特に表現の自由の実現 にたいしても敏感であるべきでしょう.

    他人を傷つける言葉を発する人々を言論(あるいは無視)以外の方法で罰することは, 自由学術を破壊することになる.そういうやり方をすれば,自由学術がもつ 恩恵を受けることはできなくなる.

    天皇陛下とポルノの両方とも好きなら,それらをコラージュするというのは どうだろう?

    Hitoshi Igarashi, the Japanese traslator of The Satanic Verses, was killed.

    三原麗珠